SSブログ

いつか向こうで [think]

DVC00056_3.jpg

古い友人が亡くなりました。
バーで倒れてそのまま逝ってしまいました。
まさに急逝でした。
同じ歳のクリエイター仲間。
僕らは同じ時代を共にペーペーから一緒に立ち上がってきたデザイナーとカメラマンでした。
何度も喧嘩したし、何度も助け合った。
いや。助けてくれた、が正しいか。
大きな時間の流れや時代の隆盛と共に僕らの絡みも少なくなり
彼の個人的な問題もあって近年は疎遠になってました。
それでもつい最近も上手くやってるというのを人の噂で伝え聞いたりして安心したりしてたのですけれどね。

ほぼ半世紀を生きてきた道。
死は身近な存在になりつつあります。
いや。
昔からずっと死は僕らの側にあったのですけれども、リアリティとしてそこに存在し始めたという感じです。
友人に限らず、親の世代、少し上の先輩世代など
生が限定だと認識することもなかった子供時代に経験する死とはまったく違う存在感でそこに突然現れます。

人の死に遭遇するといつも思うことがあります。
「彼(彼女)は幸せだったか」
それは長い人生を俯瞰しての評価でもいいし、亡くなった直前の状況でもいい。
故人が幸せな日々を送っていたのかどうか。
そこは想像するしかないのですけれどもね。
もし幸せじゃなかったとしたら…
あるいは幸せだったとしたら…
亡くなってしまった今
どちらも辛いことには変わらないのですけれど、
せめて、直前の日々が美しかったと認識していたとしたら
少しは浮かばれるような気がしてね。
だって自分がそうありたいと強く強く願うから。
子供時代に遭遇する身近な人の死と決定的に違うのは
その故人の人生や願いに想いが及ぶからなのですね。
そして自分の死と何かをリンクさせてるからなのだと思うのです。

彼は幸せな日々の中で逝けたのか。
彼の死は大切な人たちが哀しんでくれるようなものだったろうか。

それは言い換えれば
僕は幸せな日々の中で逝けるのか。
僕の死は大切な人たちが哀しんでくれるようなものだろうか。
そういうことなんです。

胸の奥が痛いものですね。
もうパートナーとかコンビとか呼べるような間柄ではなかった友人であっても、そういう時期が確実にあった友人の死はやはり特別です。
僕と奥さんの結婚式の直前に彼が撮ってくれた二人の写真が今も飾ってあります。

彼の友人が企画して彼の追悼写真展が京都と東京で開催されるという噂。
彼の死は間違いなく大切な人たちが哀しんでくれるようなものだったようです。
たくさんの人に迷惑をかけ
たくさんの人を無条件に助けた故人を
今は偲びたいと思います。
さようなら。
いつか向こうでまた喧嘩しましょう。

マハロ!
mahalo !


Kanjani8-glorious

にほんブログ村 デザインブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 デザインブログ DTPデザインへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村

ALOHA DESIGN ON BLOG English translation
nice!(67)  コメント(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。